伊集院静が好きだ。
小説、作品が、というより・・・。もとい、「も」すきだが、その生き方に影響を受けている。
渋いとか無頼とか素敵とか云うのはなく。不器用さや優しさが嬉しい。「あ~、そうそう」「うん、あるある」と云う感覚。
最近、氏のエッセイとでもよぶべき本が週間書店ベスト10なんかに顔を出し、平積みされていると何だか淋しく想うのは、依怙地ファンの悪い感傷だろうと思う。
そんなわけで、昨今、文春時代(はちゃめちゃないい時代)からのフリークとしては、本の装丁に氏の写真が載ること自体、戸惑いの対象で、敬遠、忌むべきもの・・・のように手にとらずに過ごしてきた。
ところが、先日、本当に何となく手に取り、何となく買い求め、読んでいる。当然、心地いい気分に誘ってくれる。独特の優しさは健在でまずは安心する。
氏の本を読んでいて、自身の半生や、ここ1、2年を振り返ってみる。
想うに、とにかく、丸くなった。
歳をとったと云うべきか。
自身に戸惑うほどに、静かになったとしみじみ想う。
「断酒」のおかげ、せい、だと人は云うだろうし、それもなくはない。しかし、もっと根本的に変わった。酒飲み時代も日中までへべれけだったわけではなく、酒が体内になくとも、キレるときは、キレ、怒ること、しょっちゅうだった。
この文を仕事に勤しむ日中に書こうと思い立ったのも、先ほど、「丸くなったな~」とし~みじみ思い、その反省の深さを留めたいと思ったからだ。
場所は、市ヶ谷の超有名な麺どころ、「S」。
繁盛していて、店の衆もきびきび働いていて、心地よい。・・・ところが、席について暫し品が来ない。後に座った左右の客の品が出て食べ終わろうとしていたので、「未だなんだけど・・・」とおずおず云おうと思った矢先、引き取り手のいない麺がカウンターを右往左往。「それでもいいよ」と助け船を出すかどうか迷いつ・・・。「ちなみに、こっちも大丈夫?」と訊ねた。
そこで、「あ、スイマセン。(注文)飛んでました、すぐ作ります!」とくれば、むしろ、気持ちよく、「その(浮いている)注文、頂いても、そっちさえよければ、こっちはOKだよ」と自然とくちをつくところ。
さも、「忘れていません!」と云う体裁で作りに入った。こちらは学生時代4年も飲食店でバイトしていたので、店内の事情は透けて見える。可愛くないな、よくないな、とがっかりしてしまった。
以前の私なら、そもそも訊ねる前に、食券製にて、そのまま。後払いなら、当該金額を机上に置いて黙って店を出るようなヤツだった。
が、今日は、あっさりと、ちんまりと、更に数分待ち、“忘れられていた”麺が出るや、美味しく頂いて(本当に美味しいのです)、平和に店を辞した。
読んでいる皆さん、「ん、それだけ?」と云うでしょう。が、これ、当人にしたら、もの凄い大変化なんです。
なぜ、噴火しないのか、なぜ待てるのか、自分でも説明できない。
店のためにも、義憤し、怒鳴り散らすか、店を出るという抗議の意思をもって、諭すべきなのだ! しかし、それをせず、しずしずと、ともすれば、自分だけが良ければ、美味しければ良い。と云う体を貫いてしまった。
堕落だ。悪い大人だ・・・。
伊集院ワールドでは、存在しない、良くないことなのだ! と強く思うのであります。
人間はわかってゆくものです。
作風、価値観、なども、残念ながらそうでありましょう。
しかし、変わってはいけないもの。譲ってはいけないもの。はあると思うのです。
現実的に、社会的に考えてみて、大いに怒りましょう、キレましょう、というのも無理なお話でしょう。が、態度に出さなくとも、胸の中で逡巡、邂逅するべきだと思うのです。
そんな「大切な」こと、「些細な」ことを思い出させてくれるところが、伊集院さんの本のもっとも素晴らしいところなのだと思うのです。
【執筆者】成りたろう インターネット集客 株式会社レゾンデートル
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